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«日本社会に長い間暮らしてきた人間として強く思うのは、「自己を客観視しない価値観」が問題だと思う。失業したり、なにかひどい目にあったら、それが直接「自分自身の価値の喪失」と捉える文化がこの国にはある。仕事や学校、そのようなものに自己を同化させて、そこでの評価が絶対となっている。
自殺率が比較的低い国(アルゼンチン、英国、スペインなど)の人たちと話していて思うのは、彼らにはそのような価値観が全く理解出来ないだろうなということだ。彼らの世界は自分中心で作られており、どんなことがあってもそのせいで「自分自身の価値自体が喪失」したとまでは考えない。平たく言えば、だいたい他人か社会のせいにして、「おれ、悪くないから」で済ます。
またそれに付随することとして、日本人と議論して相手の意見に異を唱えると、とかく彼らは感情的になる。あたかも自分の存在が否定されたかのように感じるらしい。外国人との議論では前提となるのは「各自が違う意見を持っていることが当たり前」ということだ。だから、反対意見を言ったところでそこまで感情的にこじれることはない。»
— 自爆スイッチを押さないための処方箋:自己を客観視するということ。 : アゴラ - ライブドアブログ (via twinleaves)
(Source: wwwambrosecomtumblr)
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«495:
名無しさん@涙目です。(五稜郭):2011/10/17(月) 01:33:23.59 ID:IbCkjVoY0
社会人=人格者という訳わからん論法を用いるからな。
社会が腐っているこのご時世で、社会人であることは
侮蔑の対象でしかないという、基本的なことすら踏まえていない。
寧ろ、人格破綻者扱いされてもいいくらいではないか。
何もかもが、あべこべな時代である。
509:
名無しさん@涙目です。(鳥取城):2011/10/17(月) 01:34:44.17 ID:/3QY4k190
»495
>社会が腐っているこのご時世で、社会人であることは侮蔑の対象
斬新な見解だ»
«日本では10年以上、相交わることのない2種類のネットユーザーがいたのだ。ガラケーを使う大衆と、PC を使う情報強者だ。私は、当然後者に属していた。そして後者からは、ガラケー文化がどうしようもなく低俗に見えたのは否定しがたい。
日本では階級の断絶がことさらに意識されることは少ないが、この2つのネットの文化の断絶はそれに近かった。
そして、これは公然の秘密といえるだろうが、最近勃興しつつあるソーシャルゲームは、まさに前者のガラケー=大衆向けの文化なのだ。そして、これは従来 PC からネット接続していた情報強者たちと完全に断絶している。
それが証拠に、私が先日、ソーシャルゲームの実態に疑問を投げかけるような書評を書いても、「私はメチャクチャ、ソーシャルゲームにハマっていますが、実際に素晴らしいものです!」などとコメントしてくれた人が誰もいなかった。数千のアクセスを集めても、その中でソーシャルゲームをやり込んだひとはほとんどいないのだ。
日本には相交わることのない2つのインターネットが存在している。PC のインターネットとガラケーのインターネットだ。それがいま、スマートフォンという媒介を経て互いの存在に気づこうとしている。だが、この2つが完全に融合するかといえば疑問符がつく。
ソーシャルゲームが、いびつな構造を持つとすれば、消費者は「大衆」なのに、生産者は「情報強者」という点だ。ここでは、自ずから、消費者と生産者は非対称な形を取らざるを得ない。これは、いまや滅びつつあるマスコミと同じ形だ。ある意味、ソーシャルゲーム陣営こそ、マスコミの正当な後継者なのかもしれない。»









